競馬の過去のレースにはさまざまな名勝負がありますが、誰が見ても気持ちが良いと思うレースは、歴史的名馬が他の名馬を力でねじ伏せるような走りを見せつけるレースではないでしょうか。
本記事では歴代最強馬ランキングというテーマで、多くの人が認めるであろう輝かしい成績を残してきた競走馬たちを紹介します。
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「歴代最強馬とは?」は競馬ファン永遠のテーマ
「歴代最強馬とは?」という話になると競馬ファンは各々が自分が最強であると考える名馬たちについて熱く語りだすことでしょう。
これまで日本競馬界には私たちの度肝を抜くような走りをしてG1レースを何勝もするような歴史的名馬が沢山誕生し、私たちに興奮と感動を与えてくれました。
歴史的名馬は能力もさることながら、リアルタイムでその活躍を観ていた人は思い入れもあるでしょうから、その場にいる全員が納得するような歴代最強馬というのは存在しないといっても言い過ぎではありません。
優劣を完璧につけることは不可能
そして、日本競馬界は長い歴史の中で昔とは大きく変化しました。
歴史的名馬というのは、その時の条件にその馬の能力がベストマッチしたからこそ類まれなる活躍をした、といってもよいでしょう。
また、競走馬にはそれぞれ脚質というものがあり、得意な走り方があります。
誰も寄せ付けない逃げ馬こそが最強と思う人もいれば、豪快な追い込みで先行馬をごぼう抜きする追い込み馬こそ最強だと思う人もいるでしょう。
歴史的名馬全頭をまったく同じ条件で走らせれば優劣をつけることができますが、現状そのような事は出来ないので、歴史的名馬の優劣を完璧につけるということもまた、不可能なのです。
最強馬に選出される条件とは?
歴代最強馬を選出するにあたり、重要視したのは以下の3つのポイントです。
この3つの要素を複数回達成しているような競走馬は多くの人が歴代最強と認めるような活躍をしてきた名馬だといえるのではないでしょうか。
G1勝利数
競馬のレースはグレード制になっていて、上位グレードになるほど出走条件が厳しく、ライバルたちも手ごわい競走馬ばかりとなります。
やはり競馬のレースの最高峰と呼ばれる「G1レース」に複数勝利するというのは並大抵のレベルでは到底不可能です。
したがって、G1レースを複数回勝利しているような競走馬は歴史的名馬であるといえるでしょう。
歴史的快挙
どのような馬も成し遂げられなかったような記録を達成したり、レコードタイムを更新するような走りを見せてくれる競走馬というのは最強馬の称号にふさわしいのではないでしょうか。
競馬の初心者にもわかりやすい歴史的快挙としては、「皐月賞」「日本ダービー」「菊花賞」の3レースを制する「クラシック3冠」があります。
顕彰馬
「G1レース複数回勝利」「歴史的快挙」を成し遂げた馬のなかでも、特に輝かしい成績を挙げた馬は、競走馬の殿堂入りともいえる「顕彰馬」に選出されます。
顕彰馬に選定された競走馬たちは誰もが認める強さを持っているため、選定の際の基準のひとつとしました。
多くの人が最強に挙げる10頭
まずは総合的に突出した強さを持っている、誰もが認めるであろう10頭の競走馬を紹介していきます。
ここに名前が挙がる10頭は、現役時代「この馬の馬券を購入していれば間違いない」という絶対的信頼感を持たれているほどの走りを見せてくれた馬たちです。
ディープインパクト
1頭目はディープインパクトです。
恐らくこの馬のことを歴代最強馬の1頭に加えないという人はほとんど居ないのではないでしょうか。
「ライバルが居ないからG1を7勝もできた」という人もいるかもしれませんが、この馬のレースぶりを見ていると、ライバルが居なかったのではなく、そう思わせてしまうほどこの馬の能力が傑出したものであるということがよくわかります。
ディープインパクトはクラシック3冠を無敗で成し遂げました。
この馬の強さは誰もが認めていて、クラシック3冠目となる菊花賞ではなんと単勝人気が「1.0倍」になるという珍事が発生してしまうほどです。
この馬の魅力はなんといっても最高峰から「飛んでいる」とまで言われた異次元の末脚によって前の馬をいともたやすく突き放していくその走り方にあります。
上記で紹介している動画のレース「天皇賞春」はそんなディープインパクトの走りのすごさがもっとも良く伝わるレースのひとつではないでしょうか。
スタートで悲鳴が起こるほど大きく出遅れながら3コーナーからスパートをかけるという無謀な走りで前を抜き去り、当時のレコードタイムで圧勝するというような走り方はこの馬にしかできません。
また引退後は種牡馬としても数えきれないほどの重賞、G1勝利馬を輩出したことも多くの人から賞賛される要因のひとつです。
シンボリルドルフ
デイープインパクトが登場するまで長らく歴代最強馬の筆頭候補となっていた馬がシンボリルドルフです。
ディープインパクトが誰が見てもわかるようなド派手な勝ち方をしていたのに対し、シンボリルドルフは前方に位置して前の馬を伺いながら最後の直線で抜き去るというセオリー通りの勝ち方をしていたため一見すると地味ではありますが、その冷酷な勝ちっぷりはまさに「皇帝」という異名にふさわしい走り方でした。
この馬が初めて達成した「G1レース7勝」という快挙がその後アーモンドアイが更新するまで誰も上回れなかった事を考えただけでもこの馬がどれだけ強かったかが分かります。
しかも当時は今ほどG1レースの数が多くなかったということを考慮すればさらに評価は上昇するのではないでしょうか。
また、自分で仕掛けどころを把握しているほど頭の良い馬としても有名でした。
主戦騎手だった岡部幸雄騎手は日本ダービー勝利後、「競馬の事をルドルフに教えてもらった」と語っているほどです。
トキノミノル
別名「幻の馬」と呼ばれている歴史的名馬です。
この名前が名づけられた理由としてはやはり早くして亡くなってしまったことが挙げられるでしょう。
3歳という伸び盛りの時に破傷風を発症してしまい、惜しくも亡くなってしまったこの馬について、「生きていたらもっと勝ち星を重ねていたであろう」と悔やむファンはとても多いです。
それもそのはず、トキノミノルは最後のレースとなる日本ダービーも含めて10戦10勝、戦後中央競馬で10レース以上走っている馬では現在においても唯一の全勝馬となっています。
更に10勝中7回はレコードタイム更新という成績で、他の馬とはかけ離れた強さを持っていました。
動画はトキノミノル最後のレースとなる日本ダービーのレース中継ですが、実はこの時トキノミノルは右前脚が故障でほぼ使えない状態でした。
そのような状態にも関わらず、向こう正面で早くもしかけると他の馬を一気に突き放し、最終直線では独走状態で圧勝しています。
シンザン
シンボリルドルフと共に昭和の名馬の筆頭候補として名前が挙がるのが「シンザン」です。
「5冠馬」として名高いシンザンでしたが、実はデビュー当時あたりは調教で全くやる気を見せなかったためか、厩舎やオーナーからも全然期待されていませんでした。
しかしシンザンの担当調教師と主戦騎手は早くからその才能を見出しています。
シンザンが入厩した厩舎には、同年代にオンワードセカンドという前評判も高い期待された馬がいたのですが、シンザンの主戦騎手は「シンザンとオンワードセカンドが同じレースに出たら迷わずシンザンに乗ります」と断言するほどその才能を評価していました。
しかし重賞を含めて5連勝すると流石に周りもこの馬の能力を認めたのか、皐月賞では1番人気になりますが、ここを完勝、続く日本ダービーも本気で走ってないと思うような走りで勝利、夏休養時に体調を崩してしまうものの、秋には復調して迎えた菊花賞、最終コーナーまではなかなか前に出られず、多くの観客がもうダメかと思っていたそうですが、最終直線で騎手がゴーサインを出すとシンザンは凄まじい切れ味の末脚を繰り出し、結局2着に3馬身差で勝利、戦後初の3冠馬に輝きました。
その後は天皇賞春も制覇、そして引退レースとなる有馬記念の最終コーナーでは観客席のスタンドから見えなくなるほど外ラチを走らされ、絶望的な状況でしたが鉈の切れ味と後に称された凄まじい末脚で一気に前に出るとそのままゴール、見事引退レースも優勝で終えたのです。
19戦15勝2着4回連対率100パーセントという数字は、未だに破られていない日本記録です。
マルゼンスキー
マルゼンスキーは、戦績で言えば正直ここで紹介する名馬のなかでは最も劣っています。
出走した全8レース中、重賞勝利は2つだけでした。
しかし、レースでのその強さはまさに規格外で、全8レースでつけた2着との着差は合計61馬身という信じられないような数字となっています。
平均して7馬身以上付けなければこの記録が達成できないことを考えれば、この記録がいかに凄いかが分かるのではないでしょうか。
さらに、マルゼンスキーは中長距離を走れる馬ではありません。
この記録はすべて着差がつきにくい短距離、マイル戦で叩き出した記録です。
競馬はブラッドスポーツと呼ばれるほど血統が子供に与える影響が大きいのですが、マルゼンスキーの父はイギリスクラシック3冠馬であるニジンスキー、母父は種牡馬であるバックパサー、母の母も最優秀2歳牝馬になった馬という超良血馬でした。
しかし、マルゼンスキーは生まれながらに前足が極端に外を向いている状態で、いつ故障するか分からないような状態であり、調教でも本気で走らせることはできませんでした。
しかしながらマルゼンスキーは「逃げるつもりじゃないのに逃げる形になってしまってそのままゴールする」と称される、現実味のない走りでデビュー戦を勝利します。
その後もありえない着差で勝利を量産していきますが、やはり一番のレースは動画を添付した「朝日杯3歳ステークス」でしょう。
このレース、鞍上の騎手はまったく鞭を入れていません、それどころか手綱を緩めて馬を好きに走らせている状態です。
にも関わらず最後は2着と13馬身差、カメラが目一杯引かなければ2着の馬を移せないという状況でした。
そのあまりの強さに、マルゼンスキーが出走するレースでは出走を辞退する馬が相次いだため、マルゼンスキーが走ったレースはすべて10頭以下、更には出走頭数が足りずにレース自体が中止となりそうな場面もあったといわれています。
これだけの強さを誇るマルゼンスキーですが、脚に抱えた爆弾のために出走馬としての活躍はわずか10か月ほどでした。
さらにマルゼンスキーのような外国からの持ち込み馬は、当時の中央競馬のルールでは皐月賞のような主要レースに出走することができなかったのです。
主戦騎手だった中野渡騎手が「28頭立ての大外枠でもいい。賞金もいらない。他の馬の邪魔もしない。だからマルゼンスキーを日本ダービーで走らせてくれ。そうすれば、どの馬が一番強いかわかる」と周囲に漏らしていたというのは、マルゼンスキーという馬の無念さが伝わる名エピソードとして知られています。
エルコンドルパサー
エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、グラスワンダー、セイウンスカイといった強豪ひしめく98年世代の競走馬たちのなかでも頭ひとつ抜けた強さを持っており、国内だけではなく海外のG1レースでも好成績を挙げた馬として高く評価されています。
特にこの馬が評価されているのは適正の高さで、マイル中距離はもちろん、ダートレースでも好成績を上げていました。
長期的にフランスへ遠征していたため出走はできませんでしたが、出走していれば有馬記念でも上位の成績、上手くレースを運べば優勝していたかもしれません。
3歳で当時は強力な外国競走馬の出走していたジャパンカップを制し、長年日本競馬界が悲願としている凱旋門賞制覇もあと一歩のところまで漕ぎつけた、誰もが認めるであろう名馬の1頭です。
ナリタブライアン
ナリタブライアンは4歳時は度重なる故障で苦しみ、思うような成績を残せませんでしたが、クラシック路線を圧倒的な強さで勝利しつづけた3歳の時の強さに限定すればどんな名馬にも引けを取らないでしょう。
この馬の魅力は素人目で見ても分かる、他の馬とは一線を画す「暴力的な走り」で、その走りはしばしば猛獣のようと称されてきました。
走り方は他の馬を食いちぎるような迫力を持っているにも関わらず、ナリタブライアン自身は小さな水溜まりや果ては自分の影にすら怯えるほど臆病で、デビュー直後はその才能を発揮しきれない日々が続きます。
そこで陣営は鼻先につける馬具「シャドーロール」を装着し、ナリタブライアンがレースに集中できるよう対策を施しました。
するとすぐにその効果は表れ連勝を続け、「朝日杯3歳ステークス」(当時は現在表記より馬齢が1歳多いため、現在表記では2歳)で初のG1勝利に輝くと、いつしか「シャドーロールの怪物」という異名をつけられるようになります。
圧巻のレースを見せたのは3歳になってからでした。
あまり着差がつかないレースである「皐月賞」において3馬身半差という驚異的な強さでゴールすると、続く「日本ダービー」では5馬身差をつけてゴール、シンボリルドルフ以来となる「クラシック3冠」は確実かと思われていました。
しかしこの年の夏は猛暑だったためナリタブライアンは体調を崩し、一時期は菊花賞出走も断念しようかという状態でした。
なんとかトライアルレースである「京都新聞杯」に出走し、元返しである単勝1.0倍という圧倒的な人気を集めたものの、調整不足ということもあってまさかの2着という結果でした。
そして迎えた菊花賞、一抹の不安を抱えながらファンは見守っていましたが、抜群のスタートを決めると前の馬としっかりと折り合い、4コーナーを回った瞬間姿勢を低くすると独特のフォームで一気に加速、後ろをグングン突き放すと最後は「7馬身差」でゴールします。
前年の菊花賞では半兄であるビワハヤヒデがレコードタイムを出していたのですが、ナリタブライアンは稍重という馬場状態の中、そのタイムを0.1秒縮めるレコードタイムでの優勝となりました。
そして年末の有馬記念でも同様の走りで古馬を含めた他の馬をまったく寄せ付けないレースを見せます、後方から牝馬であるヒシアマゾンが猛烈なスパートで後を追うもナリタブライアンにはまったく届かず、ここでも1着でゴール、クラシック3冠含め、出走したG1レース4戦をすべて勝利するという成績で、年度代表馬に選ばれました。
サイレンススズカ
サイレンススズカは戦績だけで言えば正直他の馬と比べると見劣りします。
G1レースに限って言えば、4歳児に勝利した宝塚記念ただ1レースのみです。
しかし「もし元気で走り続けていたらどれだけの奇跡を見せてくれただろう」と多くの競馬ファンに思わせてしまうような、他の競走馬にはない走りをする馬でした。
サイレンススズカはデビュー前から注目を集めてはいたものの、3歳時には思うような成績を残すことができませんでした。
その理由として、ひとつは元々気性に問題があったという点が挙げられます。
有名なのは皐月賞のトライアルレースである弥生賞でのエピソードで、このレースでサイレンススズカはレース前に突然ゲートをくぐり抜けてしまいます。
大外枠に移されてなんとかスタートはしたものの、今度はスタート前に立ち上がってしまったために全くタイミングが合わないままのスタートとなりました。
スタート後は持ち前のスピードで猛追したものの、結果は8着と惨敗、皐月賞出走は断念せざるを得ませんでした。
その後賞金を積み重ね、日本ダービーに出走しますが、このレースで陣営はサイレンススズカに控えるレースをさせるよう騎手に指示します。
ところがサイレンススズカは終始いきたがるそぶりを見せたため実力をまったく発揮できず、高い能力がありながら9着に破れてしまいました。
その後も善戦はするものの勝ち切れない日々が続きましたが、年末の香港国際カップで武豊が騎乗したことによって、サイレンススズカの真の実力が開花します。
武豊騎手は当時ライバルであったサイレンススズカの走りをずっと観察していて、「この馬は抑えるよりも好きに走らせたほうがよいのでは?」と感じ、香港国際カップでは逃げの競馬をさせることを決意、結果は5着と敗れたものの、この戦法に確かな手ごたえを感じた武豊はサイレンススズカに続けて騎乗することを熱望、サイレンススズカに逃げの競馬を教え込みます。
すると5歳になって逃げの走りを覚えたサイレンススズカは覚醒したかのような走りを見せ、バレンタインステークスから金鯱賞まで4連勝、特に金鯱賞では後のG1ホースとなるマチカネフクキタルが出走、そのほかにもトーホーレインボー、ミッドナイトヘッドなど強豪たちが出走する中、最終的に10馬身差という圧倒的な着差をつけて勝利、このレースをみた多くのファンは「この馬にどうやったら勝てるんだろう」と感じたことでしょう。
サイレンススズカの走りはとにかく他の馬との差を考えながらペース配分するというものではなく、自由に走らせた結果だれもその差を詰めることができないという、競走馬にとって理想的な走り方をする馬でした。
金鯱賞後、本来は天皇賞秋に向かう予定だったのですが、ファン投票で6位に指示されたことと疲れもなく元気だったこともあって、急遽宝塚記念への出走を決めます。
しかしこの宝塚記念ではエアグルーヴ、メジロブライト、メジロドーベル、ステイゴールドといったこれまでとは比べ物にならないライバル達が出走、さらに武豊騎手は先約があったためエアグルーヴに騎乗しているなど、不安要素がいくつかありました。
しかしサイレンススズカはいつものように逃げのレースをするとライバルたちの猛追をかわし、初のG1馬となったのです。
しかしそれ以上のメンバーとの対決となったのが次の「毎日王冠」です。
このレースには先に紹介したエルコンドルパサーとグラスワンダーが出走、G2レースでありながらまるでG1レースのような対決となり、この対決を一目見ようと13万人以上の観客が詰めかけました。
レースはサイレンススズカがいつもの逃げるレースで進み、他が追走するという展開になります。
そして最終直線になってもそのスピードは衰えるばかりか更に伸びを見せ、69キロというトップハンデを背負いながら、あのエルコンドルパサーに2馬身以上の差をつけて完勝、このレースはサイレンススズカのベストパフォーマンスとして有名です。
そして最終目標であった「天皇賞秋」、競馬ファンにとっては「沈黙の日曜日」の別名で有名な、あまりにも悲劇的すぎる最期によって、サイレンススズカの走りは二度と見ることができなくなってしまいました。
順調に走っていれば恐らく天皇賞秋は勝っていたでしょうし、その後も数々のG1レースを制していたはずです。
テイエムオペラオー
テイエムオペラオーは、別名「世紀末覇王」と呼ばれ、長らく生涯最高獲得賞金を維持し続けていた名馬です。
とはいえ、3歳時は主戦騎手だった和田竜二騎手がまだ新人で未熟だったこともあり、皐月賞には勝利したものの、その後のレースでは惜しい着差で負ける日々が続いていました。
そして4歳になると、オーナーから「1回も負けるな」という、あまりにも無茶な号令が下されます。
しかしオーナーの言うことは絶対であり、なんとしてもこの目標を達成せざるを得なくなりました。
まず1戦目の京都記念を勝つと、続く天皇賞春の前哨戦阪神大賞典でも2馬身差で勝利、ここからファンはテイエムオペラオーの強さに気付き始めます。
そして天皇賞春でも勝利し、春のG1最後のレースとなる宝塚記念でも完勝、見事春の古馬戦線を全勝で終えます。
秋に入り、京都大賞典でも当然のように勝利、続いて天皇賞秋に出走すると圧倒的1番人気に支持されます。
しかし当時の天皇賞秋は、1番人気に指示された名馬たちがことごとく負けるという状況がなんと19年も続いており、テイエムオペラオーももしかすると負けるのではと一部の競馬ファンは懸念していました。
しかし、テイエムオペラオーはそんなジンクスをまるであざ笑うかのように勝利、この勝利によってテイエムオペラオーは、東京、中京、阪神、京都の主要4競馬場すべてのG1レースに史上初めて勝利した競走馬となりました。
つづくジャパンカップでもP直線の競馬だけで勝利、これによって獲得賞金総額を当時最高額である13億円に、自身の持つJRA重賞連勝記録を7勝に更新しました。
そして、伝説のレースといわれる「2000年有馬記念」を迎えます。
このレースでは「テイエムオペラオー包囲網」といっても過言ではないようなマークを展開、テイエムオペラオーは馬群に完全に囲まれて前にも横にも出せない、まさに四面楚歌の状況のまま最終直線を迎えます。
有馬記念が行われる中京競馬場は最終直線が短いコースとなっていて、残り300mを切っても全く前に出せない現状に、多くのファンは「ついにテイエムオペラオーが敗北するのか」と、半ばあきらめかけていました。
しかしラスト200m、他の馬たちもスパートをかけた瞬間わずかに出来た隙間を縫うようにしてオペラオーは進出、最終的にハナ差で奇跡の大逆転勝利、見事4歳のレースを無敗で終えることとなりました。
レース後、他の馬との接触によりテイエムオペラオーの馬体は傷だらけだったこと、そして自分自身がテイエムオペラオーの能力を信じきれない騎乗をしてしまったことで和田騎手は涙したそうです。
オルフェーヴル
ディープインパクトともっとも比較される事が多いであろう競走馬がこのオルフェーヴルです。
性格的にはディープインパクトはとても落ち着いていて、常に最高のパフォーマンスを披露してくれるのに対し、オルフェーヴルは競走馬になれるかすら危ういほどの気性難でした。
しかし能力はディープインパクトに引けを取らないどころか、もしかするとディープインパクト以上なのではと思わせるような走りをする競走馬であり、未だに多くの競馬ファンを魅了し続ける名馬です。
オルフェーヴルはディープインパクト以来史上7頭目のクラシック3冠馬となりましたが、菊花賞のレース後、なんと騎手である池添騎手を振り落とすという珍事が発生し、実況でも「こんな3冠馬は見たことがありません」と言われる始末でした。
しかし池添騎手は「僕とオルフェーヴルらしい」と苦笑いしながらコメントしています。
オルフェーヴルと池添騎手は、多くの競馬ファンが名コンビと認める間柄でした。
この馬と騎手ならば凱旋門賞も射程圏内だろう、そう思っていたことでしょう。
しかし、その思いは敵わず、二度目の凱旋門賞挑戦は外国人騎手による騎乗となります。
それでもオルフェーヴルは2戦とも2着に入るという成績であり、特に4歳時の凱旋門賞はゴール手前まで観ていたファンに「勝てる!」と思わせる走りっぷりでした。
これが池添騎手だったら、と今でも悔やむ人は多いのではないでしょうか。
また、ある意味この馬のポテンシャルを嫌というほど思い知らされることとなったレースが2021年の阪神大賞典です。
このレースではオルフェーヴルは終始池添騎手の指示をまったく聞かない状態で、スタートしてしばらくすると早くも先頭に立ち、観客は騒然となります。
その後池添騎手は必死に手綱を引っ張ったところ、今度は突然失速、第3コーナーを回らないまま逸走してしまいます。
騒然となったスタンドは今度は故障したのではと悲鳴に変化したのですが、オルフェーヴルは突如加速して前方を猛追します。
流石に疲れたのか惜しくも2着となりますが、あれだけの逸走をしたうえに終始かかりっぱなしの状況で最終的に2着に入るというのは、並の馬であれば不可能でしょう。
2度目の凱旋門賞挑戦後、有馬記念をラストランに決めた陣営は調整に入ったのですが、その時期に1通の手紙が届きます。
その手紙には、「5歳の息子が大ファンで1度オルフェーヴルに会いたいといっている」といった内容が書かれていました。
普通であれば、そのような要望にいちいち対応しないところですが、その5歳の男の子は重い病気にかかっており、年末の有馬記念まで生きられるか分からないような容体だったのです。
自身もお子さんがいる池添騎手は、その願いを実現させたいとオーナーや牧場に直談判、その願いは実現します。
オルフェーヴルは普段誰であろうと撫でてきた人に噛みつこうとするのですが、この少年が撫でたときは、そのようなそぶりは一切見せず、いつまでも撫でさせてあげていたそうです。
池添騎手も陣営も「絶対に勝ってこの少年に勇気を与えなければ」と決意を新たにしたことでしょう。
しかし男の子は治療の甲斐もむなしく、有馬記念を前にしてこの世を去ってしまいました。
この出来事により、なおさら負けられなくなったオルフェーヴルと池添騎手でしたが、調整は完璧とは言えず、出来は正直8割くらいとのコメントでした。
しかしレースがはじまるとオルフェーヴルはスタートをしっかり決め、道中も万全の状態で進めていきます。
3コーナーを回って少し過ぎたところでオルフェーヴルが動き出すと、池添騎手は少し早いと感じたそうですが、オルフェーヴルの能力を信じてそのまま行かせると、最終直線に入ってもまったく衰えることなくグングン伸びていき、最終的には2着に8馬身差という圧倒的な差をつけて有終の美を飾りました。
池添騎手が勝利したあと天を見上げたのは、恐らく亡くなってしまった男の子に勝利の報告をするためだったのでしょう。
短距離・マイル部門
短距離・マイル部門にも先ほど紹介した10頭に勝るとも劣らぬ名馬たちが沢山います。
距離が短ければ短いほど確実に勝つことは難しいのですがここに紹介する馬たちはそのような過酷な状況のレースで連勝を重ねてきました。
サクラバクシンオー
日本競馬界の短距離・マイルを語るうえでサクラバクシンオーは欠かすことのできない名馬の1頭です。
しかしサクラバクシンオーが本格化するのは4歳になってからで、3歳の時点ではニシノフラワーやヤマニンゼファーなど強力なライバルと比べれば一歩劣る実力でした。
さらにスプリンターズステークス出走後、長らく抱えていた脚部不安を改善するため、4歳の夏が終わるまでレースに出走せず、調整に専念することとなります。
しかし、この調整がサクラバクシンオーの眠っていた才能を開花させることとなったのです。
これまで逃げて勝つ事しか出来なかったサクラバクシンオーですが、復帰後は先行策でも勝利を掴めるようになり、迎えたスプリンターズステークス、昨年と同じくヤマニンゼファーやニシノフラワーといった強豪たちも出走していましたが、サクラバクシンオーは2着に2馬身以上の着差を付けてゴール、見事G1初勝利を手にしました。
その後は安田記念や毎日王冠などマイル戦に出走し、マイル戦でも上位入賞する活躍をすると再び短距離レースに戻り、スワンステークスに出走、このレースでサクラバクシンオーは1,400mレースでは初めて1分20秒に壁を破るレコードタイムを叩き出します。
そして、マイルチャンピオンシップで2着となった後、次のレースであるスプリンターズステークスで勝敗に関わらず引退することを発表しました。
最後のレースであり、連覇がかかったスプリンターズステークスではこの年からこのレースが国際競走となったこともあって3頭の外国産馬が出走するという状況だったにも関わらう、終わってみれば4馬身差の圧倒的強さで勝利、ファンに惜しまれつつターフを去ることになりました。
この当時、日本の短距離G1レースはスプリンターズステークスのみでしたし、海外でも短距離G1レースがそれほど多くなかったためG1勝利数こそ少ないですが、バクシンオーの活躍が短距離路線の活性化に大きく貢献したことは間違いないでしょう。
ロードカナロア
サクラバクシンオーと双璧を成す、日本競馬短距離馬史上最高候補として必ず名前が挙がるのがロードカナロアです。
G1勝利数のみで言えば6勝と、サクラバクシンオーを圧倒しています。
もちろんサクラバクシンオーが活躍していた時は高松宮記念は短距離レースではなく中距離レースでしたし、連覇を果たした香港スプリントもなかったので単純に比較はできませんが、その抜群の安定感は超一流のスプリンターであるという何よりの証拠でしょう。
また、中国名である「竜王」がとても有名で、ファンからもこの呼び名で呼ばれることが多いです。
デビュー戦の1,200mを圧勝しますが、その後NHKマイルや皐月賞を見据えてマイル戦に出走させると距離が合わないのか2着に甘んじることとなってしまいます。
良血馬でしたが、陣営はクラシック路線を早々に諦め、スプリント路線で進むことを決意、するとその後の1,200mレースをすべて1番人気で6連勝するという快進撃を見せ、この年より改装されたコースでの開催となる高松宮記念に出走、ここでも1番人気に推されますが、ここではスプリンターズステークスの覇者であるカレンチャンに屈し3着となり、連勝は6でストップしました。
その後も騎手乗り換えなどの影響からか惜しいレースが続きますが、カレンチャンとの再選となったスプリンターズステークスではカレンチャンを後方から差し切ってレコード勝ち、ついに短距離王者に輝きます。
そしてカレンチャンと共に香港へ渡り迎えた香港スプリント、このレースはこれまで何頭もの日本競馬界屈指のスプリンターたちが挑み、苦汁をなめる結果となったレースであり、ここで勝つことは日本競馬界の悲願のひとつでもありました。
しかし終わってみればロードカナロアは2着に2馬身差という圧倒的な着差をつけて勝利、ついに悲願である香港スプリント制覇を成し遂げて見せたのです。
帰国後は阪急杯を完勝し、春のスプリント王決定戦である高松宮記念に出走します。
圧倒的1番人気となったロードカナロアは格の違いを見せつけるようなレースを見せ、コースレコードで圧勝、国内スプリントG1両レースを制覇しました。
次に選んだレースは安田記念、マイルレースということもあり不安視もされましたが、この時期は絶対的マイル巧者が居ないこともあって1番人気となります。
ロードカナロアはファンの不安を払拭するようなレースで勝利、マイル戦でも強いところを見せつける結果となりました。
その後はスプリンターズステークスを勝利して前人未到の国内G1スプリント3連覇を達成、引退レースとなった香港スプリントでも史上3頭目の連覇を達成するという圧倒的な強さを見せつけたままターフを去ることになりました。
ロードカナロアは種牡馬になってからも数々の名馬を生み出しており、特に後述するアーモンドアイがG1レース9勝をするという偉業を成し遂げています。
タイキシャトル
マイル路線で最強の馬はどの馬かという話になった時に真っ先に名前が挙がるのがタイキシャトルです。
タイキシャトルはウマ娘においても最初期から実装されているので、名前を知っている人は多いことでしょう。
また、外国産馬として初めて顕彰馬入りしたのもこのタイキシャトルです。
デビューこそほかの馬に遅れるものの、デビュー後あっさり3連勝し、クビ差2着となった菩提樹ステークスを挟んでユニコーンステークス、スワンステークスと重賞レースを楽々と連勝して臨んだマイルチャンピオンシップ、更にはスプリンタースステークスでも圧勝し、あっさりと史上初めて秋のスプリントマイルを連勝する馬となりました。
翌年は蹄がボロボロになり引退するかどうかという危ない状況であるにも関わらず京王杯スプリングカップをレコード勝ちすると、雨によって不良馬場となった安田記念においても1頭だけその馬場を感じさせない伸びを見せて圧勝します。
実はこの年は海外に専念すると陣営から発表が出ていたのですが、このレースを観たファンはタイキシャトルならば海外G1初制覇の偉業を達成してくれると期待に胸を膨らませていました。
残念ながら海外初G1制覇は安田記念で打ち負かしたシーキングザパールに譲ることになったものの、タイキシャトルも当然のようにジャック・ル・マロワ賞を勝利、見事期待に応えてタイキシャトルは日本へ帰国、マイルチャンピオンシップではなんと5馬身差をつける走りで勝利、この着差は現在においても破られてはいません。
実はこのレースで引退する予定だったのですが、JRAの強い要望でその後のスプリンターズステークスに急遽出走することとなります。
しかし流石に急過ぎる出走だったためプラス20キロとまったく調整ができていない状態では流石に勝ち切れず、最後のレースは3着に終わりました。
なお、タイキシャトルは現在も健在で、YouTubeでは度々のんびりと過ごしている模様がアップされています。
モーリス
モーリスは2015年から2016年にかけて国内外のマイルレースを席巻した競走馬です。
ここに紹介する競走馬の中では知名度でいえば少々劣るものの、戦績は全く引けを取りません。
デビュー戦をいきなりコースレコードで勝利するものの、そこからはなかなか勝ち切ることはできませんでした。
その後4歳になるまで長期休養と調教に専念することになるのですが、この頃から明らかにモーリスの能力は急上昇を見せており、陣営側の期待も高まっていきます。
その予測通り4歳になると3連勝、一気にマイル戦の主役となり、安田記念では堂々の一番人気を獲得、レースに臨むことになりました。
すると鞍上の川田騎手は末脚を持ち味とするモーリスに先行策を取らせます。
結果的にこの作戦が功を奏し、モーリスはG1ホースの仲間入りを果たすのでした。
夏の休養後は毎日王冠に出走する予定でしたが思うように調教ができず、結果的にぶっつけ本番でマイルチャンピオンシップに挑むこととなります。
しかし本番では調教が思うようにお行かなかったのが嘘の「ような末脚で完勝、見事同年春秋制覇を成し遂げると続く香港マイルも4分の3馬身で完勝、海外G1も制し、名実ともに世界トップクラスのマイル王者に輝きました。
5歳の初戦は香港のチャンピオンマイルでしたが、ここも勝ち香港レース連勝という最高のスタートを切ります。
ところが安田記念ではスローペースに翻弄され2着となり、連覇とはなりませんでした。
その後札幌記念で2着になったモーリスは、なんと天皇賞秋への参戦を発表、中距離G1獲得を目指すことになります。
距離不安からダントツの1番人気とはなりませんでしたが、レースでは距離不安をものともしない走りを見せて勝利、見事中距離でもトップクラスの実力であることを実証してみせました。
そしてラストランとなる2度目の香港カップでも2着に3馬身差をつける強さで完勝、余力を残したままターフを去って行ったのです。
デュランダル
デュランダルという名前はローランの歌に出てくる伝説の聖剣が元になっているのですが、まさにその名前を体現したかのような走りでファンを魅了した競走馬でした。
短距離レースは圧倒的に逃げまたは先行馬が有利なのですが、デュランダルは他距離馬でありながら最後方からの追い込みによる凄まじい末脚によって勝ちをかさねてきた馬です。
新馬戦では勝利を収めたものの、脚に不安を抱えていたため皐月賞などのクラシック戦線に挑むことを断念、3歳までじっくりと調整に専念します。
夏に復帰後初戦は2着になるものの、その後3連勝してマイルチャンピオンシップに挑戦しますが展開が合わず10着と惨敗、続く中山記念も完敗するなど後の活躍を思えばふがいない結果で3歳を終えることになりました。
4歳秋初戦のセントウルステークスでも上がり最速の末脚を見せるも届かず3着、陣営は次のレースをマイルのオープンレースに決めようとしますが、前レースから騎乗することとなった池添謙一騎手はスプリンターズステークスへ出走させるべきと進言、この進言が受け入れられ、デュランダルはスプリンターズステークスへ出走します。
レースでは最終直線で1番人気のビリーヴが先頭に立ち、そのままゴールするかと思われましたがその瞬間、大外からデュランダルがすさまじい末脚で飛び込みます。
そしてデュランダルはゴール直前でビリーブをハナ差で交わしてゴール、大金星となりました。
続くマイルチャンピオンシップも同様に大外最後方から末脚で前を一刀両断するというこの馬にしかできない戦法で勝利、年初には重賞を1勝もできなかった競走馬が秋のスプリントレースを制覇するという快挙を成し遂げたのです。
5歳になっても現役を続行しますが、常につきまとっていた蹄の故障によって本来の能力を出せなくなり、引退して種牡馬入りすることとなりました。
グランアレグリア
牝馬のマイル短距離史上最強馬に限定すれば、グランアレグリアという名前を聞いて異論を出す人はいないでしょう。
グランアレグリアはその強さも去ることながら、短距離・マイル・中距離と史上初の3階級制覇に挑戦し続け、私たちに夢を与えてくれた点でも後世に語り継がれるべき存在でしょう。
天皇賞秋は、そんなグランアレグリアの雄姿を見ることができます。
グランアレグリアはスペイン語で「大歓声」を意味する馬名ですが、皮肉にも彼女が活躍したのはコロナ禍の真っただ中、観客をまともに入れられない時期でした。
デビュー戦から2歳レコードタイムを叩き出すなどその高い能力を見せつけ、初重賞は朝日杯フューチュリティステークスを選択します。
しかし挟まれる形となったのを嫌がったのか思うように伸びず、3着に終わります。
その後トライアルを挟まずに桜花賞へ直行、4コーナーで先頭に立つと後は後続を突き放し、2着に2馬身以上の差をつけてG1レース初勝利となりました。
その後NHKマイルに出走、圧倒的1番人気に推されましたがダノンチェイサーと衝突するというアクシデントに見舞われ、結局5着となってしまいます。
その後は秋まで休養し、スプリンターズステークスの出走を目指すも調整がうまくいかず回避、続くマイルチャンピオンシップも回避し結局復帰レースは前レースから7か月後の阪神カップとなりました。
長期休養明けということもあり、若干の不安視もありましたが、そんな不安を吹き飛ばすかのようにグランアレグリアは1,400mのレースで5馬身突き放すという圧勝で3歳を終えました。
4歳初戦は高松宮記念に出走、しかし主戦騎手のルメール騎手がドバイのレースへ出走するため急遽鞍上が池添謙一騎手に変わってしまった影響もあってか、3着という結果になります。
次のレースはヴィクトリアマイルかと思われましたがこれを回避し、安田記念へ出走します。
この年の安田記念には先のヴィトリアマイルを快勝したアーモンドアイ、昨年の春秋マイル王者インディチャンプなど強豪が勢ぞろいしたこともあって、グランアレグリアは3番人気単勝12倍と、彼女の実力を考えればかなり低い人気でした。
ルメール騎手はアーモンドアイに騎乗していたため池添騎手が続いて騎乗、この時池添騎手は「絶対に負けるな」と檄を飛ばされていたそうです。
レースでは第3コーナーで他の馬が蹴り飛ばした芝の塊が池添騎手に直撃するというアクシデントがあるなかそれを物ともしない見事な騎乗を見せ、2着のアーモンドアイに2馬身差をつける強さを見せ、文句なしの現役最強マイル覇者に輝きました。
秋はスプリンターズステークスへ直行、後方2番手、中山競馬場の短い直線という圧倒的不利な状況を全く感じさせない末脚で2馬身差突き放して完勝、マイルチャンピオンシップでは残り100mまで進路を塞がれるという絶望的な状況の中、わずかな進路を見つけるとあっさりと差し切り、難なく同年春秋マイル制覇を成し遂げました。
5歳になり、陣営は3階級制覇をかけてまずは大阪杯へ出走を表明、これには多くの競馬ファンが驚いたことでしょう。
しかし本番は大雨で不良馬場となり、最終的にそれまで6連勝と絶好調だったレイパパレが不良馬場を感じさせない走りで圧勝、グランアレグリアは4着となってしまいます。
その後はヴィクトリアマイルへ出走、ここでは2着に4馬身差つけて圧勝し、マイル女王は健在であることを見せつけますが、続く安田記念はローテーション的に流石にきつかったのか、ゴール手前でダノンキングリーに交わされ、2着となってしまいました。
秋は再び3階級制覇を目指して天皇賞秋へ出走、ここには前年度無敗3冠馬コントレイルと、皐月賞制覇、ダービー2着のエフフォーリアも出走しており、グランアレグリアも含めた3強ムードとなっていました。
レースはまさにその3強が凌ぎを削る直線勝負となりましたが、エフフォーリア騎乗の横山武史騎手が抜群の位置取りで4コーナーで先頭に立ったグランアレグリアを交わし、続いてコントレイルにも交わされ、3着に終わります。
3階級制覇達成とはなりませんでしたが、この果敢なる挑戦は高く評価されるべきでしょう。
そしてグランアレグリアはマイルチャンピオンシップを最後に引退することを発表します。
天皇賞秋から中2週というスケジュールのため、疲労も懸念されましたが、マイル女王にとってはそんなものは関係ありませんでした。
いつものように最終直線で爆発的な末脚を繰り出すと悠々と1着でゴール、この時のマイルチャンピオンシップはコロナ禍が収まったこともあって、完全ではありませんが観客を入れての開催となったため、最後のレースにて彼女はその名前通り、「大歓声」に包まれながらターフを去ることができました。
牝馬部門
近年、牝馬にも牡馬に負けないくらい高い能力の競走馬が次々と登場しています。
ここに紹介する牝馬たちはそんななかでも初の快挙を達成したり、普通の牝馬ではまず成し遂げられないような偉業を達成した名馬中の名馬です。
アーモンドアイ
アーモンドアイは先に紹介したロードカナロアを父に持つ競走馬で、つい最近まで現役で活躍していた馬ということもあり、名前を知っている人も多いでしょうし、競馬ファンは彼女の強さをよく知っていることでしょう。
長年破ることができなかったG1レース7勝の壁をついに破るだけではなく、G1レース9勝という前人未到の大記録を打ち立てた牝馬です。
牝馬クラシック初戦の桜花賞で既に規格外のパフォーマンスを見せ、日本ダービーも獲れると言われるほどでしたが、予定通りオークスへ進み、ここでも上がり33秒という驚異的なスパートで楽々勝利、牝馬2冠に輝きます。
こうなるとファンはアーモンドアイの3冠獲得は間違いないだろうと期待を寄せるようになり、最後の秋華賞では1番人気単勝1.3倍という圧倒的支持を集めて本番を迎えることになります。
レースは結局全く危なげない勝ち方で何の苦もなく牝馬3冠を達成、あまりの強さに数々の競走馬に鞍上してきたクリストフ・ルメール騎手も「日本で一番強い競走馬」と絶賛するほどでした。
その強さを誰もが実感することとなったのが次に出走した「ジャパンカップ」です。
レースはキセキがスタートから逃げを敢行、一気に突き放す逃げではなく後ろを確認しつつ余力を残しながらの逃げであり、タイムはそれほど早くはありませんでした。
アーモンドアイは本来後方からの追い込みを得意とする馬なのですが、このレースでは3番手につけるという普段とは違う位置で追走します。
最終コーナーになっても奇跡は衰えることなく逃げ続け、さらにスパートをかけており、普通ならキセキの作戦勝ちになるはずでした。
しかし4コーナーを回ってスパートをかけたアーモンドアイはそんな完璧なレースをしたキセキをあっさりとかわして先頭に立ち、1馬身以上離してゴールします。
東京競馬場に居た観客も、テレビ等でレースを観ていた競馬ファンも改めてアーモンドアイの強さを実感し、勝ち時計を観た瞬間、多くの人が「もしかして時計が壊れてるのでは?」と思ってしまったのではないでしょうか。
この時の勝ち時計2分20秒6というのは、それまでのレコードタイムを1秒5も更新してしまっているだけではなく、2,400mレースのワールドレコードすら1秒3更新するという衝撃のタイムだったのです。
4歳初戦はドバイターフを選択、ここも危なげ得なく勝利すると多くの競馬ファンは凱旋門賞獲得を期待しますが、体質面の弱さがこの遠征で露呈したこともあって、陣営側は凱旋門賞には挑戦しないことを正式に発表します。
帰国後は安田記念を選択、ここでも圧倒的1番人気に推されますが、スタート食後に大外の馬が大きく斜行したことにより進路を阻まれ、大きく不利となってしまいます。
最終直線では異次元の末脚を見せるもさすがに届かず3着、新馬戦以来の敗戦となってしまいました。
続く天皇賞秋では圧勝するも、年末の有馬記念では距離が合わなかったこと、1周目スタンドでスイッチが入ってしまったことなどが重なって9着と初めて惨敗を喫したのでした。
5歳初戦ヴィクトリアマイルは鞭を打たずゴール手前では抑えるという全く本気を出さない走りで楽勝、続いて安田記念に出走しましたが、ここではグランアレグリアの快走により2着となります。
秋は天皇賞秋へ直行、十分に休養を挟んだアーモンドアイに敵は居ませんでした。
これまで数々の名馬が挑戦し、達成できなかったG1レース8勝という偉業をこのレースでついに達成、名実ともに競馬史に残る競走馬となったのです。
そしてラストランとなったジャパンカップのこのレースにはこの年無敗で3冠となったコントレイルとデアリングタクトが出走しており史上初めて3冠馬3頭が激突するという伝説のレースとなりました。
当時新型コロナウィルスの影響で、現地観客数は大きく削減されていましたが、もし通常であればもしかすると観客数は20万人の大台突破は確実だったのではないでしょうか。
馬券の人気もこの3頭が分け合う形となり、アーモンドアイもこのレースではさすがに単勝2倍台となっていました。
レースは前年同様キセキの逃げという展開になりますが、今回は後方をかくにんしつつの逃げではなく道中10馬身以上近く離すという大逃げを展開、あまりの差に「もしかすると大金星となってしまうのでは」と感じるファンもいたことでしょう。
しかし3頭の3冠馬の実力は圧倒的でした。
まずゴール前150mあたりでアーモンドアイがキセキを交わすと、あーもんぢ愛をマークしていたコントレイルが続いて交わし、さらにゴール手前でデアリングタクトもキセキを交わしてゴール、3冠馬が上位を独占する形となりました。
この勝利でアーモンドアイは芝G19勝、国内G1に限っても8勝と単独首位となり、その強さをファンに見せつけたまま引退することになりました。
近い将来、間違いなく顕彰馬に選出されることでしょう。
ジェンティルドンナ
ジェンティルドンナは牝馬3冠を達成しただけではなく、ジャパンカップ、さらには有馬記念まで制しています。
父はディープインパクトで、ディープインパクトは数えきれないほどの重賞勝利馬を輩出していますが、ジェンティルドンナはその代表産駒の1頭です。
桜花賞では末脚を爆発させて完勝、続くオークスでは主戦騎手である岩田康誠騎手が騎乗停止のため川田将雅騎手に乗り替わりとなりますが、結果は5馬身差という圧倒的な着差で勝利します。
そして牝馬3冠がかかった秋華賞、最終直線で逃げるチェリーメドゥーサを捉えますが、大外からこれまで3度もジェンティルドンナに苦汁をなめさせられてきたヴィルシーナが猛追、両者はほぼ同時にゴールに飛び込みます。
写真判定となりますが、ハナ差でわずかにジェンティルドンナが勝利し、史上4頭目の3冠牝馬となりました。
その後ジェンティルドンナはジャパンカップに参戦、このレースは凱旋門賞帰りのオルフェ―ヴルも参戦を決定しており、史上初めてクラシック3冠馬と牝馬3冠馬が激突することとなりました。
レースは最終直線で共に追い上げてきたオルフェーヴルと力尽きたビートブラックに挟まれる形となりますが、ここでなんとジェンティルドンナはオルフェーブルを弾き飛ばして進路を確保します。
一瞬ひるんだオルフェーヴルは体制を立て直し、必死に追いかけますがハナ差でジェンティルドンナが先着し、見事ジャパンカップを制しました。
4歳初戦は海外へ渡りドバイシーマクラシックに挑戦しますが、ここは届かず2着、帰国後は宝塚記念に出走するものの、このレースでは重馬場だったこともあって思うように末脚が伸びず3着となってしまいます。
秋初戦は天皇賞秋を選択するも、ここも道中かかったことが災いしてか2着となりますが、続くジャパンカップではしっかりと折り合いがついたことと、本命候補の1頭であるゴールドシップが伸びてこなかったこともあり勝利、史上初めてジャパンカップ連覇を達成しました。
5歳初戦は京都記念を選択するも6着と初めて掲示板を外す惨敗を喫します。
このレースの後ドバイマシークラシックに出走したのですが、先の惨敗もあり不安に感じたファンも多かったことでしょう。
しかしレース本番ではジャパンカップのような気迫あふれる走りで前をふさいでいた馬を押しのけ、先頭でゴール、昨年の雪辱を果たしました。
帰国後は前年同様宝塚記念に出走するも、ここではまったく本来の力を出せず、過去最悪の9着、秋初戦の天皇賞秋では前年と同じく2着と惜敗、続くジャパンカップでは苦手な不良馬場になったことも災いしてか4着と振るわず、勝ち切れないレースが続きます。
そして引退レースとなった有馬記念、連敗したことを不安視してか、3冠牝馬であるにも関わらず4番人気にまで人気を落としてしまっていました。
しかしこのレースでは久々に本来の力を発揮、見事に引退レースを優勝で飾りました。
これにより、ジェンティルドンナは牝馬では史上初めて東京、中山、阪神、京都の主要4競馬場を制した競走馬となったのです。
ダイワスカーレット
ダイワスカーレットはG14勝という戦績はもちろんですが、なんといっても出走した12レースすべて2着以内という他に類を見ない安定感を誇っていた名牝です。
デビューから2千連勝するものの、その後は戦術を模索しつつ騎乗していたこともあり、惜敗するレースが続きます。
そして迎えた桜花賞、前レースで惜敗を喫したウォッカも出走していて、レースはこの2頭にアストンマーチャンを加えた3強ムード、以降ウォッカとは何度も激闘を繰り広げるライバル同士となります。
レースは行為につけて早めにスパートをかけたダイワスカーレットが抜け出して優勝、見事ウォッカに前レースの雪辱を果たしました。
その後熱発によりオークスは回避、夏季休養後はローズステークスを圧勝した後に秋華賞に出走、ここでもウォッカに先着して見事牝馬クラシック2冠目を獲得します。
この頃には持ち前の「持続力」を生かして先頭または2番手あたりで道中を進み、スパートをかけるという走りがすっかり板についていました。
続くエリザベス女王杯、ここにもウォッカは参戦を表明しており、3度目の対決かと思われましたが、レース直前に脚部不安のため出走取り消しとなります。
ウォッカが出走しない牝馬戦はいかに古馬との初対決とはいえ、ダイワスカーレットには何の障害もありません。
ここも勝ってG13勝目を獲得しました。
続いて有馬記念に出走するも、ここは流石に届かず2着となりますが、最優秀3歳牝馬に輝いたのです。
明けて4歳、今度はなんとダートG1勝利を目指して照準をフェブラリーステークスに定めます。
ところが調教中に目を怪我してしまい、このプランは断念せざるを得なくなりました。
目の怪我も回復したダイワスカーレットは産経大阪杯に出走、当時はまだG1レースではありませんでしたが、G1レース級のメンバーが揃う顔ぶれでしたが、スタートから先頭に立つとそのまま逃げ切り勝利します。
しかしダイワスカーレットは元々頑張りすぎる気性であり、このレースでも全力を出してしまった結果、脚の治療のためその後のレースの出走を見送らざるを得なくなりました。
そして秋になり、ファンの間でも「平成の名勝負」と呼ばれる2008年天皇賞秋に出走します。
このレースには最大のライバルであるウォッカも出走、オッズはこの2頭とディープスカイが他を突き放し、3強ムードとなっていました。
しかしこの時、ダイワスカーレットは7か月ぶりのレースということもあり、レース前から気持ちが高ぶり、掛かり気味だったそうです。
その影響もあり、レーススタート直後からダイワスカーレットは一気にトップに立ちます。
半ば暴走気味の走りだったため、鞍上の安藤勝己騎手も「最後までもたない」と覚悟を決めた状態でレースは進みます。
そして最終直線、先頭を走るものの後ろからはしっかり折り合いをつけたウォッカとディープスカイが迫ってきていました。
その後3頭が並ぶ体制となり、ダイワスカーレットは激走が祟ったのか徐々に失速、ウォッカとディープスカイのマッチレースとなると安藤勝己騎手も感じていましたが、ここでなんとダイワスカーレットは再び加速、2頭に並び立つとディープスカイはここで徐々に失速、しかし今度は後ろから追い込んできたカンパニーとエアシェイディが猛追、5頭がほぼ並んだままゴールします。
掲示板の結果が全て出るまで実に13分以上という長い写真判定の結果、ウォッカがわずかにハナ差で1着、ダイワスカーレットが2着となり、ウォッカに敗れる結果となりました。
そしてジャパンカップは回避し、有馬記念に出走します。
ここでも天皇賞秋と同じくスタートから逃げるレースをしますが、この時は天皇賞秋とは違ってとても落ち着いたスタートとなりました。
しっかりと自分のペースで走っていると、他の馬は追走するのに手一杯で最終直線で全力を出す余力はもう残っていませんでした。
こうなるとダイワスカーレットが負ける要素はなく、1971年にトウメイが制して以来36年ぶりに牝馬が有馬記念を制するという快挙を達成したのです。
5歳も現役を続行する予定でしたが、競走馬にとって致命的な病気である屈腱炎を発症、そのまま引退し、繁殖牝馬となりました。
番外編「感動させてくれた名馬」
ここでは番外編として、まるで小説のような感動的なラストランを見せてくれた名馬を3頭紹介します。
戦績は先に紹介した競走馬たちに劣るかもしれませんが、競馬ファンの記憶に残る走りを見せてくれたという意味では間違いなく最強の馬たちでしょう。
オグリキャップ
ディープインパクトに匹敵、いやそれ以上の知名度を誇る競走馬がオグリキャップです。
彼によって巻き起こった「第二次競馬ブーム」の影響はすさまじく、オグリキャップのぬいぐるみは飛ぶように売れていきました。
しかしこの加熱するブームはオグリキャップにはストレス以外の何物でもなく、大食漢で有名だったオグリキャップがまったく飼い葉を食べなくなってしまうほどでした。
葦毛の怪物とまで言われたその走りもすっかり影を潜め、天皇賞秋6着、ジャパンカップ11着という結果で、多くのファンがオグリキャップの全盛期はもう過ぎてしまったと感じていました。
そして引退レース、鞍上にはその年の安田記念でオグリキャップに騎乗して見事勝利させた武豊騎手が再び騎乗することになります。
この日の中山競馬場は18万人近くのファンを収容して入場規制がしかれる事態となりました。
ところが詰めかけたファンの多くは「オグリキャップの引退レースを観たい」というのが本音で、誰も1着になるとは思っておらず、人気投票1位にも関わらず馬券は4番人気に甘んじています。
武豊騎手はこれまで激戦を繰り広げてきたライバルに対して「お前はオグリキャップやろ?」と喝を入れたところ、それに答えるように武者震いをしたそうで、その瞬間武豊騎手は「これはいける」と確信したのではないでしょうか。
レースは逃げ馬が出遅れ、先行馬が不本意な逃げをしたこともあって超スローペースとなり、各馬が自分の走りを見失う中オグリキャップは落ち着いて道中を進みます。
そのまま第3コーナーで徐々に進出すると、最終直線中ほどで先頭に立ってそのままゴール、誰もが予想だにしなかった感動的なラストランとなりました。
この奇跡的な出来事にファンは大興奮、レース後巻き起こったオグリコールは競馬ファンならば誰もが感動する名シーンのひとつです。
そして、ゴール後の「もうこれで十分です」という名実況は競馬ファン全員の心境を代弁したものといっても過言ではないでしょう。
トウカイテイオー
有馬記念で感動のラストランといえば、トウカイテイオーも忘れてはいけません。
トウカイテイオーの父は言わずと知れた皇帝シンボリルドルフで、テイオーという名前は間違いなくシンボリルドルフの異名である「皇帝」を意識したものでしょう。
トウカイテイオーはその名に恥じぬ活躍を見せ、皐月賞と日本ダービーを圧勝、クラシック3冠は確実と思われていました。
ところがレース後に骨折を発症し、半年間の休養を余儀なくされます。
その後は度重なる故障に苦しみ、4歳時の有馬記念以降まったくレースに出走できないまま翌年の有馬記念が引退レースになると陣営から発表されました。
1年以上出走しない状態で、その年を代表する馬たちが集まる有馬記念にぶっつけ本番で出走、このような状況でトウカイテイオーは勝てるわけがないと誰もが思っていたことでしょう。
出走メンバーはビワハヤヒデ、ベガライスシャワーメジロパーマーなど強豪ぞろいでありながら元々の人気も相まって、この時のトウカイテイオーは4番人気でした。
レースは終盤でこの年において文句なしの最強馬だったビワハヤヒデが抜け出し、そのまま勝ち切るかと思われましたが、その外からトウカイテイオーが猛追します。
1年間休養したとは思えないような根性の走りを見せてビワハヤヒデをとらえるとそのまま差し切ってゴール、364日ぶりにG1レースに出走しての勝利というのは2022年現在においても破られていない大記録です。
ステイゴールド
ステイゴールドはいわゆる「シルバーコレクター」であり、G1レースを含めた重賞レース38回出走中実に14回2着というある意味どんな馬も成し遂げられない記録を持っている競走馬です。
6歳暮れまで50戦走ったものの、1度もG1レースを勝利することができないままラストランを香港で開催される香港ヴァーズにすることを決めます。
このレースにおいて、初めてG1レースで1番人気となったステイゴールドですが、レースはエクラールが大逃げを敢行、2着以下を大きく突き放して更に余力を残したまま最終直線に入ります。
しかしここでステイゴールドの末脚が爆発、逃げるエクラールをゴール直前で捉えると僅かに差し切ってゴール、見事最後のレースをG1初勝利で飾ったのです。
ステイゴールドの勝利は日本産の日本調教馬ではじめて海外G1レースを勝利するという快挙でもあり、この勝利でステイゴールドは名実ともに日本競馬史上にその名を残す競走馬となりました。
そして何と言っても彼は種牡馬としてとても優秀であり、ドリームジャーニー、ナカヤマフェスタ、そしてなんといっても3冠馬オルフェーヴルとG16勝を挙げたゴールドシップが代表産駒としてあまりにも有名です。
歴史的名馬になるであろ2022現役最強馬
2022年の宝塚記念を観た人は、1着となった「タイトルホルダー」の圧倒的強さに鳥肌が立ったのではないでしょうか。
ネットでは早くも「凱旋門賞をもっとも期待できる馬」「歴史的名馬」といった賞賛の声が次々と寄せられています。
レースがスタートすると、タイトルホルダーは素晴らしいスタートを切り、先頭に立ちます。
タイトルホルダーは天皇賞春での圧勝劇のように、自分が逃げてペースを作ることを得意とするのですが、このレースでは同じ逃げ馬であるパンサラッサに先頭を譲りました。
パンサラッサは先頭を「走らされる」状況となり、すぐ後ろにタイトルホルダーも控えていたからか、最初の1,000mを57秒8という殺人的超ハイペースのレースとなります。
このスピードでは前も後ろもついていくのが精一杯で、事実多くの馬が最終コーナーに差し掛かるあたりで既にスタミナを失い、特に後方から追い込む予定だった馬たちは総崩れとなりました。
しかしタイトルホルダーは余力十分で前を行くパンサラッサをあっさり交わすと先頭に立ちます。
そこへヒシイグアスとデアリングタクトが猛追してきたのですが、2頭とのタイトルホルダーとの差はまったく縮まらず最終的に2着の菱イグアスに2馬身差をつけ圧勝しました。
更に勝ち時計は2分9秒7と、このレースのレコードタイムまで叩き出したのです。
先頭を走らせれば無尽蔵のスタミナで逃げてしまいますし、番手に控えさせてもトップクラスの瞬発力で前をとらえ、トップに立てる力を持っている今のタイトルホルダーに勝つ方法が正直思い浮かびません。
まとめ
ここに紹介したのはほんの一部であり、ここに紹介した以外にもたくさんの歴史的偉業を達成した最強馬候補が沢山存在します。
YouTubeなどで過去の名馬のレースなどはたくさん見ることができるので、自分なりの歴代最強馬ランキングを作ってみてはどうでしょうか。